本田圭佑の苦難の子供時代とは?

本田圭佑の子供時代をあなたは知っていますか?この金髪のレフティは若くして成功した天才だと思われがちですが、実は過酷な子供時代を過ごしてきました。本日はその偏見との戦いと子供時代の出来事をお伝えします。

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本田圭佑、29歳。現在は日本代表のエースであり、所属するACミランでは背番号10番を背負っています。天才、底知れないポテンシャル、才能豊かなタレント…。彼はいろいろな言葉で形容されてきましたが、本当の姿は努力家です。そしてそのルーツは子供時代にあります。

日本代表のエースの卒業文集

本田圭佑は現在、日本代表のエースと、所属するACミランで背番号10を与えられています。日本代表としては5試合連続ゴールの記録を更新している最中で、3月の代表戦でも記録の更新が期待されています。また、ACミランでは2015年末から絶好調。アシストを連発してチームの攻撃を牽引しています。そして2月のジェノア戦では得意のミドルシュートも沈めるなど圧倒的な存在感でACミランの中盤に君臨しています。まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いでキャリアをひた走っています。

本田圭佑の苦難の子供時代とは?

本田圭佑は小学校の卒業文集でこんな夢を綴っています。

ぼくは大人になったら、世界一のサッカー選手になりたいと言うよりなる。
世界一になるには、世界一練習しないとダメだ。
だから、今、ぼくはガンバッている。
今はヘタだけれどガンバッて必ず世界一になる。
そして、世界一になったら、大金持ちになって親孝行する。
Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれてヨーロッパのセリエAに入団します。
そしてレギュラーになって10番で活躍します。
一年間の給料は40億円はほしいです。
プーマとけいやくしてスパイクやジャンバーを作り、世界中の人が、このぼくが作ったスパイクやジャンバーを買って行ってくれることを夢みている。
一方、世界中のみんなが注目し、世界中で一番さわぐ4年に一度のWカップに出場します。
セリエAで活躍しているぼくは、日本に帰りミーティングをし10番をもらってチームの看板です。
ブラジルと決勝戦をし2対1でブラジルを破りたいです。
この得点も兄と力を合わせ、世界の強ゴウをうまくかわし、いいパスをだし合って得点を入れることが、ぼくの夢です。

この本田圭佑の卒業文集を読んだことがある人は多いと思いますが、改めてその内容に驚かされます。子供時代にすでにこのような具体的な内容の夢を持っていたこと。そしてこの子供時代に夢見ていたことを幾つかすでに実現していることに驚かされるのです。しかし、それよりも注目すべきは自分自信を「ヘタ」だと認めていることです。子供の頃にそれを受け入れて誰かに言うのは非常に勇気がいることです。そしてこの日本代表のエースの力の源はこの「ヘタ」だった時代にあります。

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才能に恵まれなかった子供時代

日本代表のエースは小学校を卒業して中学に進学しました。中学では部活動に所属はせず、生まれ育った地元のビッグクラブであるガンバ大阪のジュニアユースのチームへ入団しました。このガンバ大阪のユースチームには家長昭博安田理大が所属していました。ガンバ大阪は日本代表の遠藤保仁選手や元日本代表の宮本恒靖選手を輩出したJリーグでも屈指の育成能力を持つクラブです。そして本田圭佑らが所属していた世代は「黄金世代」と言われて、各方面から賞賛を集めていました。その中でも特に家長昭博と安田理大はともにスピードとテクニックに長けた選手ということで子供のころから天才との評価を受けてきました。

一方で本田少年の子供時代陽の目の当たらない日々が続きました。才能に溢れた家長らに比べると、本田少年はややスピード不足で攻撃的な選手ながら大きな違いを生み出せずにいたのです。そして、高校に上がるとき、子供時代の本田少年はガンバから非情な通告を受けます。それはユースへの昇格が認められなかったのです。理由はやはりスピード不足でした。結局本田少年は高校での部活動からプロサッカー選手としての道を探ることになりました。結果的に石川県の星稜高校に進み、プロ入りを果たしたのですが、本田圭佑は大きな回り道を強いられました。本田少年にとっては子供時代の大きな挫折の一つとなっています。

大成してからは大きく水を開ける

一方で、プロになってからというもの、子供時代と違い日本代表のエースと家長や安田らとは選手としてのキャリアに大きな差が開いています。家長はスペインのマジョルカを経て、現在は大宮アルディージャに、安田はオランダで活躍した時期もその後はJリーグのクラブで活躍することができず、クラブを転々としています。現在は名古屋グランパスに所属しています。子供時代の期待とはすっかりかけ離れたところでプレーしているのに対し、本田圭佑は日本代表のエースにまで登りつめています。

本田圭佑の名言にこんなものがあります。

 俺なんて全然、天才タイプじゃないし。
 それで才能がないから諦めろなんて言われたら
 どんだけの人が一瞬で諦めなきゃあかんねん。

まさしく子供時代の挫折から諦めず努力を続けた結果、日本代表のエースとACミランの背番号10にまでたどり着きました。

プロ入り後の伸び代

結果的に家長や安田は子供時代は豊かな才能で戦うことができました。しかし、子供の時代からプロ入り後もたゆまぬ努力を続けてきた本田圭佑は、プロになってから長足の進歩を遂げていました。その成長スピードは凄まじく、日本代表にデビューしてから僅か2年ほどで、中村俊輔ら重鎮を追い落としてエースに君臨しました。逆にこの事実が本田圭佑を苦労を知らない天才選手だと周囲に思わせたのかもしれません。しかし実際このレフティは子供時代から大きな壁に阻まれてきました。人間はある一つのことを数千時間行うと、その領域に関して閾値を超えて、凄まじいスピードで成長すると言われています。金髪のレフティの場合はその領域までに時間がかかりすぎていたのかもしれません。しかし、プロになってからの伸び代は凄まじく、子供時代にこの男の先を走っていたライバルたちをごぼう抜きにしてみせました。

長身DFに起きた奇跡

本田圭佑とは2010年に南アフリカワールドカップで共に戦った中澤佑二はこの金髪のレフティを遥かに凌ぐ苦労人だと言われています。子供時代から一切才能や能力を認められたことはなく、本人も「一番下手くそだった」と発言しています。小・中・高校とクラブチームはおろか、地域の選抜にすら一度も入れなかった子供時代を過ごしてきました。高校を卒業後、アルバイトで貯めたお金を持って単身ブラジルにサッカー留学。帰国後ばJリーグのクラブに手紙をしらみつぶしに送り「練習生でもいいから。プレーを見て欲しい」と懇願し、東京ヴェルディの練習生になりました。

本田圭佑の苦難の子供時代とは?

いつ解雇通告されるかもわからず、練習に明け暮れていました。ヴェルディの練習生でありながら、母校の高校の練習試合にも参加していたという目撃情報まであるほどで、それほど中澤佑二は熱心にサッカーに取り組んだといいます。そして、2003年に日本代表に定着すると、そこから7年間代表の守備の要として君臨し続けました。187センチの長身は自慢のアフロヘアとも相まって、実際よりも遥かに大きく見えたといいます。こちらも子供時代には苦難を経験していて、中澤佑二とは横浜Fマリノスで同僚の中村俊輔も「本当の苦労人は中澤だけ」と発言するほどです。

あのマルチな守備者も子供時代は目立たず

中澤佑二と同じく目立たない子供時代を送ったのが、今野泰幸です。日本代表では長年センターバック、ボランチ、サイドバックと守備的なポジションの多くを任されるほどの主要な選手となりました。しかし、子供時代を全く芽が出ませんでした。普通、プロになるほどの子供のころから優秀な選手は高校などは推薦で入学できるものですが、今野の場合は高校からオファーが来ず、結局一般受験で東北高校に入学したとのことです。高校に入ってからは全国選手権に出場したり、県の選抜メンバーに選ばれるなど活躍しましたが、結局プロのクラブからは声がかかりませんでした。なんとかJ2の札幌を経て、J1のクラブを転々としましたが、チームが不調に陥りほとんどのチームでJ2降格を経験しました。一方で代表では2度のワールドカップに出場するなどの大きな実績を上げており、とりわけ前日本代表監督のアルベルト・ザッケローニは今野の能力を非常に高く評価していました。子供時代の逆境から日本代表の主軸にまで成長した稀なケースです。

サッカーは才能を潰すことが非常に多いスポーツ

サッカーは子供時代に逸材と持て囃された選手が大成しないことが非常に多いスポーツだと言われています。前述の家長らのほか、森本貴幸、宮市亮、伊藤翔、平山相太など日本人だけでも簡単に数人の名前を上げることができます。これが世界となると…凄まじい数の天才と謳われた逸材たちが大成せずに燻っています。

総括~本田圭佑の子供時代~

本日は日本代表のエース、本田圭佑の子供時代についてお伝えしました。この金髪のレフティは一見その才能とスター性であっという間に日本サッカー界の頂点に君臨してしまったかのように捕らえられていますが、実は子供時代は苦難の連続でした。意外に感じた方も多かったかもしれませんが、実はやや遅咲きの部類に入るのです。人間、幾つになっても努力と勉強がものを言うのかもしれないですね!本日は本田圭佑の子供時代についてお伝えしました。それでは、本日はこの辺でさようなら~☆

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