【成績】本田圭佑所属ACミランの戦いの歴史

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本日は本田圭佑のミランの成績をチェックしていきたいと思います。2001年に始まったカルロ・アンチェロッティ政権を経て、その後何人もの監督がやってきては去っていきました。この間にミランの中でいったい何が起こったのでしょうか?

シーズンごとのACミランの成績や選手の成績をチェックしていきたいと思います。この成績年表を見てあなたもミランマニアになろう!!

ミランの成績概要

ACミランは欧州屈指の名門チームです。赤と黒のユニフォームを纏った選手たちは数多くの勝利の栄光に包まれてきました。特に同じくイタリアのユベントスやインテルと違うのは国際や大会での成績が群を抜いて優秀であることです。ミランの国際大会での成績はあのレアル・マドリーに匹敵する位置づけなのです。

ミランはセリエA優勝18回(イタリアで3位)、チャンピオンズリーグ優勝7回(2位)、インターコンチネンタルカップ(※トヨタカップ、クラブワールドカップ)優勝5回、コッパ・イタリア優勝5回と素晴らしい成績を残しています。セリエAの優勝回数は特にユベントスには引き離されていますが、二つ目の星をユニフォームにつけるのは時間の問題です。セリエAは10回優勝するごとにユニフォームのクラブのエンブレムの上方に星をつける習慣になっているのです。

2000年以降のミランの成績

それでは2000年以降のミランの成績を振り返っていきます。元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニに率いられていた頃のミランは1999年から2001年にかけて不振に喘いでいました。セリエAでの成績が中位に甘んじ、チャンピオンズリーグの出場権も得られませんでした。その後、マルディーニの父であるチェーザレと、トルコの名将ファティフ・テリム(ユーロ2008で母国を率いてベスト4という成績を残した監督)、が率いましたが、いずれも短期政権に終わっています。その後、前ユベントス監督のカルロ・アンチェロッティが監督に就任すると、ミランは少しずつ復調していきます。2001-2003シーズンはリーグ戦でなんとか4位に滑り込むと、2002-2003シーズンにはチャンピオンズリーグ優勝という素晴らしい成績を残します。この時のメンバーはキャプテンのマルディーニを筆頭に、ネスタ、ジーダらが守備陣を形成。そして若きアンドレア・ピルロが中盤の底でゲームメイクするという時代の流れを作る新戦術を踏襲しました。そしてその脇には守備の汗かき役、ジェンナーロ・ガットゥーゾと万能型で後にミランの監督となるクラレンス・セードルフを配置。そしてひし形の頂点にはポルトガルが生んだ司令塔マヌエル・ルイ・コスタが君臨していました。2トップにはウクライナの矢といわれたストライカー、アンドリー・シェフチェンコと彼もまた後にミランの監督を務めるフィリッポ・インザーギがいました。そして彼らのバックアップはデンマーク代表のヨン・ダール・トマソンです。恐らくサッカーファンであれば聞いたことがある名前ばかりではないでしょうか?それほどミランの戦力は高く、アンチェロッティはこの質の高い選手たちを素晴らしい指導で高みに導いたのです。特にピルロ、セードルフ、ルイ・コスタの同時起用は当時の守備戦術がはびこっていたイタリアでは驚きをもって伝えられました。

チャンピオンズリーグの決勝ではユベントスとの同国対決を制して、優勝という成績を残しました。ちなみにこの大会ではインテルもベスト4まで進出しており、イタリア勢が3チーム準決勝に残るという快挙を達成し、イタリア勢の強さを証明する結果となっています。

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2003-2004シーズン

チャンピオンズリーグ優勝という素晴らしい成績を残したミランはそのメンバーをベースにさらなる組織の熟成をはかる継続路線を採用しました。新加入選手はブラジル代表の超新星カカ。そして、ローマからやってきたベテラン右サイドバックのカフーくらいでした。しかし、この新加入のカカが適応が難しいといわれるイタリアで見事な成績を残し、ルイ・コスタをベンチに追いやったのです。カカはイタリアデビューシーズンながら10得点という成績を残してチームをセリエA優勝に導きました。そしてセードルフやガットゥーゾ、ピルロとの組織の熟成もさらに進み、ミランはさらに進化しました。チャンピオンズリーグではベスト8という成績に終わりましたが、2年連続でビックタイトルを勝ち取るという好成績を残しています。

2004-2005シーズン

2004-2005シーズンはミランにとって忘れられないシーズンとなりました。リーグ戦は2位という成績に終わりましたが、チャンピオンズリーグでは再び決勝に進出。圧倒的な強さで難的を退けての決勝進出となりました。特にカカはチャンピオンズリーグで10得点という抜群の成績を残しました。相手はイングランドのリバプールです。リバプールはジェラードを擁していましたが、それ以外は平均的な選手をそろえている程度の戦力でミランの優勝は間違いなしといわれていました。試合はその前評判どおりに推移していきました。前半のうちにマルディーニとクレスポが2点をあげ、3-0と相手を圧倒します。しかし、後半に入ると様相は一変します。ジェラード、スミチェルが次々と加点すると、PKを献上してこれを若きシャビ・アロンソに沈められてしまいます。わずか9分間のうちにスコアは3-3の同点となってしまいました。そして試合はそのままPK戦に突入し、リバプールの選手が確実にPKを決めていく中で、ミランはピルロやセルジーニョ、シェフチェンコは失敗。リバプールが圧倒的な劣勢を跳ね返して5度目のチャンピオンズリーグ制覇という成績を収めました。この一戦は「イスタンブールの悲劇」としていまだにチャンピオンズリーグ決勝史上他に例を見ない一戦として語り継がれています。ミランのメンバーはこの試合を受けて完全に意気消沈していました。ガットゥーゾなどは数年後のインタビューでもいまだにイスタンブールでのことを思い出すと眠れなくなると話しています。それほどミランの選手にとっては衝撃的な出来事だったのです。

2005-2006シーズン

2005-2006シーズンはイタリアにとって衝撃のシーズンとなりました。リーグ戦はユベントスが圧倒的な強さで制したのですが、大掛かりな八百長が発覚。ユベントス首脳陣は審判に圧力をかけてユベントスが次に対戦するチームの主力選手を出場停止にさせ、意図的に戦力をそいで戦っていました。それらが数十試合に及びました。また、イブラヒモビッチやカンナバーロの移籍をめぐっては彼らに対して前所属クラブ内で造反を起こして、移籍を納得させるように支持したのです。この八百長が発覚したユベントスは首位という成績から最下位という処分が下されました。最終的な成績は2位だったインテルが優勝に繰り上がり、ミランは勝ち点剥奪で3位から4位という成績になりました。また、ミランの他にもフィオレンティーナやレッジーナが勝ち点剥奪の処分を受けて成績を落としています。

2006-2007シーズン

2006-2007シーズンは勝ち点が剥奪された状態からスタートしたミランは、現実的に優勝は難しい状況でした。降格したユベントスからイブラヒモビッチやパトリック・ヴィエラを補強していたインテルが圧倒的な戦力を擁していました。

リーグ戦では4位という成績に甘んじたミランですが、チャンピオンズリーグでは再び優勝を果たしました。戦力的な不安を吹き飛ばす安定した大人のサッカーを見せたミランは、因縁の相手リバプールをインザーギの2得点で下して、通産7度目のチャンピオンズリーグ制覇の快挙を達成しました。特筆すべきはやや守備陣が安定しなったこのシーズンでアンチェロッティは、2トップから1トップにシステム変更を行いました。守備力に長けたマッシモ・アンブロジーニを中盤に採用します。この起用で守備力を劇的に高めた安定した成績を残します。この優勝でつめ上げた7度のビックイヤーはレアル・マドリーに次ぐ2位の成績です。後続にはバイエルン・ミュンヘンやリバプールが続きます。

2007~2010の成績

2007から2009年の間、ミランは主要タイトル無冠の日々が続きました。選手たちは健在でしたが、八百長の影響でセリエAが大きく力を落としており、ミランもその影響を少なからず受けたのです。チャンピオンズリーグは最高でベスト16という成績におわり、セリエAでも4位以内に入るのが精一杯でした。そして2009年にはキャプテンとしてミランで600試合以上に出場してきたマルディーニが引退しました。そして2010年にはアンチェロッティ監督も退任となり、成績もさることながらミランの歴史を築いてきた人物二人が相次いでクラブを去ることになり、ミランにとってひとつの時代が終わったといえる時期になりました。

2010年アッレグリ政権が誕生

2010年にはマッシミリアーノ・アッレグリ監督が実質的にアンチェロッティの後をついでミランの監督になりました。その前はミランのクラブの幹部だったレオナルドが一時的に監督を務めました。成績は良かったのですが、レオナルドの都合で短命政権となりました。アッレグリは中小クラブのカリアリを率いて安定した成績を収めて評価を高めていた監督で、いよいよビッククラブの監督に挑戦することになりました。

アッレグリはミランの戦術の象徴だったピルロを外して、オランダ代表のマルク・ファン・ボメルを中盤の軸に据えました。これによってボールを保持して主導権を握るサッカーから縦に早いダイレクトなサッカーに方向転換しています。また、イブラヒモビッチがバルセロナからやってきた影響もあり、この長身ストライカーめがけてロングボールを送り込むというスタイルがミランの新しいスタイルとなります。特にイブラヒモビッチはリーグ戦で14得点という成績もさることながら、抜群の連携を築いたガーナ代表ケビン・プリンス・ボアテングとコンビでアシストも量産します。ボアテングは2年間で25ゴールほどの成績を収めましたがそのほとんどがイブラヒモビッチのアシストによるものなのです。

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アッレグリ政権の終焉と本田圭佑の加入

2013-2014シーズンはミランにとって屈辱的なシーズンです。2006年以降の財政難からイブラヒモビッチやチアゴ・シルバをパリサンジェルマンに放出していたミランは序盤から成績が振るわず、アッレグリをシーズン途中で解任しました。後任にはセードルフが指名されましたが、このオランダ人もミランの成績をあげることはできませんでした。結局このシーズンは8位という成績に終わっています。

そしてそんなACミランに一人の男がやってきます。それは日本代表のエース本田圭佑です。オランダ、ロシアを経てミランにやってきたこのレフティのアタッカーはチームの窮地を救う救世主としてミランに迎え入れられました。しかし、不振のチームに引っ張られる形で持ち味を発揮できず、不完全燃焼でシーズンを終えています。結局、一年目の本田圭佑のミランでの成績は1得点という結果におわりました。日本代表のエースの残した数字としては非常に寂しいものになってしまいました。

インザーギ就任も・・

セードルフの留任も噂されていたミランですが、シーズン終盤の悲惨な成績を受けて結局首脳陣はセードルフの解任を決意し、後任にはインザーギが就任しました。ミランで数多くの栄光を手にしてきたOBの就任でミランに勝者のメンタリティを植え込もうとしたのです。インザーギに率いられたミランは序盤から抜群の成績を残します。特に本田圭佑はゴールにアシストにと爆発的な貢献をみせました。一部に懐疑的だった論調を吹き飛ばす活躍でチームを牽引しました。特に右サイドバックのアバーテとの連携は抜群で、中に切れ込んでいく本田圭佑の背後をフリーランニングで飛び出すアバーテのプレーが抜群にかみ合い、ミランの右サイドは相手にとって脅威となったのです。

しかし、ミランはその後突如失速します。それに伴い、本田圭佑も徐々に存在感を失って、次第にベンチに甘んじることが多くなってしまいました。結局このシーズンは6得点に終わっています。さほど悪い成績ではないのですが、序盤の活躍を考えると尻すぼみのような印象を残すシーズンとなってしまいました。ふがいない成績を残す選手たちを叱責したインザーギに対して、造反する選手が現れるなど大きな混乱をきたしたミランは終始低調な状態でシーズンを進みました。そして結局期待されていたインザーギも1シーズンでミランを離れることになりました。最終順位も10位という成績におわり、結局前のシーズンを下回る成績となってしまいました。

総括~本田圭佑のミランでの成績~

本日は本田圭佑のミランの成績や歴史についてお伝えしました。非常に濃密で、素晴らしい成績を残してきたミランも近年はすっかり低調な状態に陥り、負のスパイラルにどっぷりとはまりこんでしまっています。今後、ミランがかつての強かったときの姿を取り戻せるときはくるのでしょうか?そして日本人としてはその中心に本田圭佑の姿があってほしいと願っています。マルディーニやコスタクルタなどのOBから実力不足と批判されることも多く、そして最近はミハイロビッチ監督のもとでベンチが定位置になってしまっていることもあり、移籍の噂が流れている本田圭佑ですが、この逆境を跳ね返してミランの英雄となれるのでしょうか?本田圭佑には日本代表の時のような抜群の成績をミランでも残してほしいと思っています。セリエAはいよいよ中盤戦にさしかかり、気の抜けない日々が続きますが日本から本田圭佑を応援しましょう!本日は本田圭佑のミランでの成績についてお伝えしました★

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